「伝統芸能の木遣り音頭を只、無邪気な地声ででは能が無い」

「伝統芸能の木遣(きや)り音頭(おんど)を只、無邪気(むじゃき)な地声(じごえ)ででは能(のう)が無い」 自慢(じまん)の声を聴(き)かすものでも在り競(きそ)う様に盛り上げて行くものでも在る。何の為(ため)に木遣(きや)り音頭(おんど)の稽古(けいこ)をして居るのか甚(はなは)だ疑問(ぎもん)で在る。理想も目標も無く漂(ただよ)っても居る、私自身の事で在るが。太古(たいこ)よりの想い願(ねがい)を受け継いで居るので残念だ。
『音頭(おんど)』と聞けば即(すなわ)ち、誰(だれ)かが音頭を取って力(ちから)を合わせ皆(みな)は一体にして向(むか)いつつ、事を運ぶ役割をリーダーに求めるので在るが、木遣り音頭は目出度(めでた)いものの和歌(わか)として分(わか)れ口遊(くちづさみ)は続けられて居る、当然、和歌は神々の美しさ大自然や自然現象を讃(たたえ)え神への想い願(ねがい)(冷泉家(れいぜいけ)の古文書の中に其(そ)の記述(きじゅつ)が在り述(の)べられて居る)が唄い継がれて居る。目出度いものの代名詞でも在る。『唯(ただ)、喜(よろこ)んで全力を尽(つ)くす(心を掛ける)』唯、せずに居られない。音頭と付けば即(すなわ)ち大勢(おおぜい)で唄う時、先(さき)に唄い始めて音の速さや高さを揃(そろ)えさせ、和音(わおん)の振動整数(しんどうせいすう)に拠りそれぞれに力は伝わり合わせられる。『要するに、歴史の中で木遣り音頭はリーダーを求めて居るので在る。』木遣り音頭も邦楽(ほうがく)の音楽で、洋楽に対してドレミの絶対(ぜったい)音階では無く、古代中国にて相対(そうたい)音階の5音階で紀元前700〜400年頃生まれ日本に伝わった「身体内(たいない)音階」で在る。(上代)
人は人の話を聴いて成長すると言う。