『京町家』のお話。其の54 「京町家」の家は借家を指す。

 「京町家」の家は借家(しゃくや)を指(さ)す。 平安時代には既(すで)に、民間デペロッパー(宅地開発業者)が存在し賃貸(ちんたい)住宅地を開発した。
 大内裏(だいだいり)の朱雀門(すざくもん)から朱雀大路は羅城門(らじょうもん)へ貫(つらぬ)くが、朱雀大路は運河と化(か)し、平安京の西半分は長安(ちょうあん)と呼(よ)んだが、元々湿地帯で平安中期に廃(すた)れて野原が拡(ひろ)がり西寺(さいじ)の五重塔が聳(そび)えるだけで在った。逆に東半分は洛陽(らくよう)と呼ばれ大いに栄(さか)えた。賀茂川を越(こ)えて東山地域にも都(みやこ)は拡がり空地や荘園(しょうえん)(平安から室町時代に掛(か)けて貴族や社寺が所有した土地。)の水田や畑で年貢(ねんぐ)の様に収入を得て居たが、開発し道路を通し住居(借家)を建て家賃収入を得た。東山からも平安京造営用材は伐(き)り出されて(東寺の記録で、空海(くうかい)等も記(しる)して居る。)、開発され住環境も交通の便も申し分無かった様で在る。其(そ)の建てられた借家群は公共事業で建てられた庶民の住居「長屋(ながや)」同様、貴族の館(やかた)風で在った。
 雅(みやび)な住居の借家で家賃も高かったで在ろう、産業振興も成功し経済も盛んと為(な)り、高収入も得られ空地には開発が掛けられ東山地域は都の中心が移った様な勢(いきお)いで在った。又、旧街区の空地も開発されて寺や借家が建てられる。宅地開発に依る、京町家の【家】は平安時代より借家を指(さ)して居た。(上代)
           アイデェンディティーは志(こころざし)で在る。