『京町家』のお話。其の⑫ 桓武天皇と葦茂る葛野宇多村。

 北高南低の山城盆地に幾筋(いくすじ)も流れる河川を改修しながら整然たる条坊(じょうぼう)都市「平安京」を造営。平安遷都(せんと)に際し第49代、桓武(かんむ)天皇は自(みずか)ら何度も新京地に行幸(ぎょうこう)を繰り返し、現世(げんせ)での平安楽土を願いて、道教(どうきょう)思想、風水(ふうすい)や方除(ほうよけ)等も加わり、廃棄物処理に悩(なや)まされ「廃都(はいと)」を重(かさ)ねた反省からも並々為(なみなみな)らぬ想いが在った。
 予定地の西北角に当たる葦茂(よししげ)り小川集まる、葛野宇多(かどのうだ)村(当時、葛野郡(かどのぐん)が開けて居た。)に於(お)いて貴族社会での古来より習(なら)わし国造りの『豊葦原瑞穂国(とよよしはらみずほのくに)』と呼(よ)ぶ成り立ちの「神話」に基(もと)づき、「大和朝廷の天皇祖神を祀(まつ)る伊勢神宮、其(そ)れに準ずる両賀茂社(かもしゃ)」三者の拘(こだわ)る願いの儀式が、湿地帯で葦原野(あしはらの)に於いて鍬(くわ)入れの儀式、地鎮祭(じちんさい)が執(と)り行われたで在ろう。貴族社会は平安時代で最後。
 桓武天皇、生誕の地ではと想わる長岡京(784年遷都)は地理的な欠陥(けっかん)等(二度の淀川氾濫(よどがわはんらん))造営中止。北上(ほくじょう)し山城の地が「四神相応(ししんそうおう)の地」と判定、(玄武、青龍、朱雀、白虎)山川麗(さんせんうるわ)し四方の百姓参(まい)り来るも容易、此の地は渡来系、秦氏(はたし)が居(きょ)を構(かま)え、永く大和朝廷共縁(えん)が深い。道教(老子(ろうし)を祖とし現世での幸福と不老長寿求める民間信仰)の神仙思想(しんせんしそう)に突き当たる。(上代)
           又、今日も巡り来て、新に初まる。