『京町家』のお話。其の⑬ 平安京、機能する「都市計画」。

 都市計画の求める処(ところ)は機能する都市。最終的には「運命共同体」で在る。計画都市をより機能させる為(ため)に各省庁等、平安京遷都(せんと)に当り最大の組織替え、『有司百官(ゆうじひゃっかん)』を置き、多数役人を配し国民、庶民の凡(すべて)て現世(げんせ)での幸福長寿を願い国家繁栄と永遠なる新皇都の為、産業育成が最重要で在った。産業振興が都市機能を確かなものとし「廃都(はいと)」を繰り返した最大反省点は総ての民(たみ)が富(と)む事で在った。
 「都市計画」が立てられ、通(とお)りに造られた庶民の住居、「長屋(ながや)」で在る。竪穴式(たてあなしき)(土間の上に直接敷物を敷いた生活。)から庶民の町家として棟続(むねつづ)きの「長屋」が道路整備と合せて建てられ形成す。平屋建て貴重な板葺(いたぶき)の屋根。貴族の館(やかた)風(宮(みや))の連棟(れんとう)、通から土壁が見え無い様(そもそも弥生(やよい)時代、食料に余剰(よじょう)が生じると支配者層も生じ、土間生活を忌(い)み嫌い、高床式祭殿建築様式の板貼(いたばり)住居に住まいし、土壁は庶民のもので、貴族は土塗壁を一切遠避(とおざ)けた。)土塗籠壁(つちぬりこめかべ)の上から網代(あじろ)等で覆(おおわ)われ、京の雅(みやび)を醸(かも)し出して居た。床は板張り貴族的床上生活を目指す。其(そ)の頃、地方庶民は竪穴式で平安中期頃迄(まで)住まいする。要するに、庶民の住居は竪穴式から床上住居生活への転換点で在った。(上代)
 「自分には自分の色彩が在り華を咲かせ無ければ為らないと自覚する。」と言う。