『吉備津神社』、神話の桃太郎伝説、今に伝うるを訪ねて。

 『吉備津神社』、神話の桃太郎伝説、今に伝うるを訪ねて。第10代崇仁(すじん)天皇(?~290年)の時代に当地を平定し卑弥呼(ひみこ)(?~256年)の以後、第7代孝霊(こうれい)天皇の皇子、吉備津彦命(きびつひこのみこと)を主神とし、一族の神を合祀(ごうし)されて居る。
 吉備津(きびつ)神社の社伝に拠ると相殿(そうでん)に、第12代景行(けいこう)天皇の皇子、日本武尊(やまとたけるのみこと)の参謀(さんぼう)とし功勲(こうくん)の在った吉備武彦尊(きびたけひこのみこと)らの一族を祀(まつ)って居ると在る。同じく社伝で、鎮座(ちんざ)の年代を第16代仁徳(にんとく)天皇(410~434年)の時代と伝う。確証は無いが平安時代に備中一(びっちゅういち)の神社として都(みやこ)に伝うと言う。現在の本殿は室町時代の建築で珍(めずら)しいのは化粧軒裏組物(くみもの)、3連の挿し肘木(さしひじき)と升(ます)の斗拱(ときょう)が迫(せ)り出す。此れは方杖(ほおづえ)の概念で鎌倉時代初頭に一時期使わる天竺様(てんじくよう)(大仏(だいぶつ)様)で重源(ちょうげん)(1121~1206年)が造営関与したと言う。現存は東大寺南大門、浄土寺(じょうどじ)浄土堂のみで在る。平安末期、1185年、都と平城を襲(おそ)った大地震に和様(わよう)、唐様(からよう)建物は壊滅した。大貫(おおぬき)、挿し肘木等で柱を貫通(かんつう)する部材を多用、軸組(じくぐみ)を水平に固(かた)めた。短期間に終わったのは方杖(ほおづえ)の斜材(しゃざい)で中国、宗(そう)で南部の寺院様式を取る。中国の寺院は宮殿建築の下位に位置す簡易建(かんいだて)。日本では嫌(きら)い寺院は宮殿様式に吉備津神社の深い軒は起木(はねぎ)が支(ささ)える。(上代)
          神話の世界を遡(さかのぼ)りて。