結局の処、声は体の何処(どこ)から発するので在ろうか。声は意識せずに勝手に発せられるが、良い声を追求すると解(わか)ら無く為(な)って仕舞います。メッセージ性が在るのでは。
詩吟の声に感動、発声を追求して36年余り美しい声に感動す。要するに発声に依り感動を伝えるので在ろう。発声に対し其々(それぞれ)の心構えが在るのでは。
音楽的発声の概念(がいねん)として、音程(ドレミ)は階段と捉(とら)え、階段面に厚みは無く、上端(うわば)(床)と下端(したば)(天井)が在ります。洋楽の発声では、下から天井を正回転(被(かぶ)せる)上昇(押音)で叩(たた)きます(陽旋法)。詩吟の発生は逆で、階段面の上側(床)を上から叩き逆回転(掘(ほ)る)し反転上昇(引音)する。此の場合、僅(わず)かな音程が低く(陰旋法)なる。要するに、違いは、天井を叩く(押音、正転)か、床を叩く(引音、の逆転)で在る。洋楽では天井(押音)を叩き、詩吟発声では上から床(引音)を叩く。永く追求すれば観(み)えて来る。
よく言われるのが、洋楽発声では長時間の発声でも声は枯(か)れないが詩吟の発声では直ぐに枯れて仕舞います。詩吟も洋楽の無理の無い発声をすべきで在ろう。ビブラートも小節(こぶし)も同じで、洋楽発声の「吟詠家」と成ろう。(上代)
声は感動を伝える為に在る。