『謎に迫れるか、「平安遷都造営」のお話』 其の23

 平安京と言えば、雅(みやび)な王朝絵巻に垣間見る背景に「蔀戸(しとみど)」が映る。其のルーツとは、縄文時代よりの竪式穴住居に在る。平安時代の末期迄、地方の農民の住居として、平地式で上屋腰台に周提(しゅうてい)を築き、中に柱が入り版築式(ばんちくしき)に土が突き固められ、高さが80cm位で内側に葦簾(よしず)が腰部を囲む。南向には窓と兼用の低い入口。東面には周提中に水甕(みずがめ)が埋められ其の横には「はしり」(端折(はしょ)るが語源)と呼ぶ木製の流し台が据えられて居た。弥生末期に石器は消え、鉄器が普及す。石器の時代では「はしり」の替わりに、まな板の石皿(いしざら)と石包丁が載って居た。
 其の「はしり」正面に明かり取りの、竹の網代(あじろ)で『東雲(しののめ)』と呼ぶ小窓が開けられた居た。東雲とは明け方、夜明けの事で在るが古代の人々は夜が明けて来ると、茵(しとね)(土間に敷く敷物)の上より東の空が紫色に輝くのを望み見た。「篠(しの)の目(め)」が『東雲』の同意語と成り、東雲こそが「蔀戸」と為り平安京庶民の長屋の飾り格子窓、数奇屋建築の下地窓と想い伝えられて行く。古墳時代(300~538年)に入ると「かまど」が大陸より伝わる。遥か古代より観ゆ日本人の心深く「東雲」より覗(のぞ)ける夜明けの姿が染(し)み付いて居た。(上代) 
               其の24、に続く。
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