全力で行(おこな)えば、何故(なぜ)、感動を産むと言われるのか、不思議で在る。身に詰(つ)まされるのか、自身に置き換え我が生を励(はげ)ますのか。命の炎(ほのお)を燃やすので在ろう、何かを果たす為(ため)か。
例えば、私が永く習って居ります詩吟の教(おし)えでは、『詩を感激して吟じる。』と在る。詰まり、己(おのれ)が感激、感動してこそ、相手にも会場にも感動は伝わると言う。確かに想いは伝わります。私の場合は、力(ちから)が入り過ぎ顔は真っ赤、皆(みな)に、もっと楽に聴かせて呉(くれ)と言われます。名人に為(な)ると、全力で行い(吟じ)ても、表情が変わらず涼(すず)しい顔をされて居ます。名人が全力で行いても涼しい顔をされて居られるのは何が違うのか。小生、未(ま)だ々だ修行(しゅぎょう)が足(た)りません。
全力で元気な、明るく大きな積極的な美しい声を発すれば感動をも伝わる、は果たして本当か。伝わるか伝わら無いかは、遣(や)って見なければ分(わか)ら無い。己自身が、元気な大きな明るい美しい通る声を発すれば感激し、『信』を培(つちか)い亦(また)、感動す。己自身も感激し、信じて発すれば本当に伝わって居るのかも知れ無い。内なる無限の力として『信』を培(つちか)い養(やしな)い喜(よろこ)んで生きる事で在る。感激し全力で行えば強い声を発すれば想いは伝わり感動と為り伝う。(上代)
「感激して行う事。」