『謎に迫れるか、「平安遷都造営」のお話』 其の8

 平安京造営時より建てられた、一般庶民用、都市計画での連棟平屋板間床、長い屋根から「長屋」と呼ばれ長屋の住宅「屋」と呼び、其れに対して貴族の家を「宮」と称した。
 「宮」の語源は弥生時代、水田広まり食糧余剰生まれ、支配層生じる。環濠(かんごう)集落以来の地方豪族等の居館は「高床式堀立柱祭殿建築様式」祭殿に近い、高床式の床板張り床上生活を始めた。其れ迄の、竪穴式住居の土間上生活から隔絶した。卑弥呼(ひみこ)(よう)した大和政権が台頭、地方豪族等を支配、大陸より「祖霊信仰(それいしんこう)」伝わり天皇縁者の神社、初めて建つ。其れ迄の、最高住居建築を「神社建築様式」と定む。故に、貴族の住居を制限、高床式より床高を下げさせ、格式の千木(ちぎ)や鰹木(かつおぎ)、門構えの鳥居等厳禁した。それでも従わ無い地方豪族等の住居、居館は焼き払った様で在る。大和朝廷が大半全土を掌握した古墳時代(300~538年)末期の事で在ろう。神社の建物が「宮」と呼ばれ其れに近い貴族の住居も「宮」と呼んで居た。平安京よりの庶民の住居、連棟の「長屋」で床上生活に転換移行、宮風造りも相まって、貴族の「宮」と庶民の住居長屋に起因す、庶民の住居を「屋」で区別した。(上代)
               其の9、に続く。
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