『身に付けたものは、死んでも彼(あ)の世(よ)へ持って行ける』 お金は、死んで仕舞(しま)ったら彼(あ)の世(よ)へ持って行け無いが、身に付けたものの知識、変化した知恵、得意技(とくいわざ)、優(すぐ)れたもの力等(ちからとう)は、彼の世へ逝(い)っても使える様で在る。閻魔(えんま)様の前で、お前は何が出来るのか問(と)われ、何も出来ませんと答えれば今迄(いままで)お前は何をも身に付けず、人の役にも立てず何の為(ため)、今迄を修行(しゅぎょう)の時を無駄(むだ)に過(す)ごして来たのか「愚(おろ)か者(もの)が」と足蹴(あしげ)にされるのでは。身に付けられるだけ此(こ)の世(よ)で身に付けて置く必要も在るのでは。修行とは其(そ)の様なもので身に付けられれば、次の展開へと進みて新(あら)たな修行(しゅぎょう)のステージが待ち構(かま)えて居るのでは。
此(こ)の世(よ)の修行とは役に立つ人間として、此の世でも彼の世でも生かされて居るのでは、又、知恵も必要で彼(あ)の世へ行っても役に立つ人間が知恵の在る人間が次の世界へと進めるのではなかろうか。ひょっとして、進めなければ地獄なのか。知恵とは何か、知識等が活用され結果として結び付き、知恵に変化して直観(ちょっかん)として与(あた)えられるものか。知恵や直観には少しは修行も必要か。
人の役に立つとは、楽しく生きるお手伝いをして、楽しく生きる事なのか。楽しいとは主体的に生きる事、幸(しあわ)せは何時(いつ)も自分の心が決めるもの。(上代)
「日々改善の毎日」