『京町家』のお話。其の36 庶民の概念は平城京より始まり。

 飛鳥(あすか)時代以前では庶民(しょみん)とは農民で在って、物部氏(もののべし)等の「部(べ)」称号は各職業集団で在り、渡来系(とらいけい)が多く氏族(しぞく)名を名乗った。平城京の都(みやこ)は貴族や役人が住まいして、大半が下級役人で在るが約一万人、彼らは国からの給料で生計(せいけい)を立てて居た。
 前の藤原京(ふじわらきょう)(693~709年)の時代迄(まで)は豪族(ごうぞく)や官人は本籍地(ほんせきち)に生活基盤を置き農耕の傍(かたわ)ら必要時に都に通(かよ)ったが平城遷都(せんと)(710年)で変る。
 中央集権が進み、官人は平城京に住む事を求められ、古代の村の民(たみ)が都市の民へと変わる転換期でも在った。百官(ひゃっかん)の府(ふ)と呼(よ)ばれ平城京は律令制(法令)導入で多量の事務作業が発生した。建物や道路の造営、補修から地方へ調達命令や役人の休暇(きゅうか)願まで、全(すべ)て木簡(もっかん)や紙の文書に記(しる)される文字運営でも在る。
 平城京の人口は、官人(かんじん)の家族、使用人らを合せ約10万人と言われ社寺や宮殿等造営工事に集められた者も多く膨(ふく)らんだ都市の消費活動を支(ささ)えたのは、地方から税として物品を納(おさ)める制度で、物や人の往来が活発になるに従(したが)い交易(こうえき)や注文生産等の多用な調達法も現(あらわ)れ平城京は物流の一大拠点と為(な)った。708年、和同開珎(わどうかいちん)の発行で貨幣経済が拡(ひろ)がり都の東西に市(いち)が出来た。(上代)
 
          思考されて居ると、必ず現実と為る。