平安末から鎌倉時代、当時の日本を巻き込んで居た仏教に於(お)ける「末法思想(まっぽうしそう)」(釈迦(しゃか)の滅(めっ)す二千年後、仏(ほとけ)のご加護から見放(みはな)されると言う。)を否定し、釈迦の法が滅するものでは無いと、常に生じ、常に滅して止まない、無常の内に法は在ると。末法と言う特別な時は無いと禅宗(ぜんしゅう)、日本曹洞宗(そうとうしゅう)の開祖、道元(どうげん)(1200~1253年)は言う。
『禅(ZEN)』とは、一つを究(きわ)める事と言う。己(おのれ)を空(むな)しくする事で在る。本来の自分に戻(もど)る事が、禅(ぜん)の本質で在ると言う。禅の発想は内なる「仏陀(ぶっだ)」の発想で在ると言う。仏陀とは『目覚(めざ)めた人』の意で在る。目覚めた人とは、要するに「主体的に生き、己を空しくし、情熱に生きる人で在ると言う。」
『禅』の目的は、悟(さと)りを開く事に在る。悟りを開くとは元来、人が備(そな)えている仏性(ぶっしょう)に気付く事、見性成仏(けんしょうじょうぶつ)(自分が備えて居る仏性に目覚めれば自(おの)ずと仏に成ると言う意味。)本来の自分とは、己を空しくしては、主体的に生き様とする事で在り、何故(なぜ)ならば、情熱が物事を成就(じょうじゅ)させる源(みなもと)で在る。其(そ)の人の持って居る情熱で在る。仏(ほとけ)に為(な)るとは結局、本来の自分に戻る事に尽(つ)きると言う。主体的に生きる事で、運を信じ、運を創(つく)る事で在ろう。(上代)
難解なものに挑戦したいです。