日本の歩む姿を示した「聖徳太子」のお話。(7号文)

 今、聖徳太子(574~622年)政治の万機を総摂し行うと。推古天皇(女帝)の時代(592~629年)に立ち想う。太子最大の業績は、やはり隋(581~618年)との対等外交で在った。女帝即位の翌年、二十歳で皇太子と成る。次期天皇を約束され、601年、斑鳩に宮の造営を始める。605年、斑鳩宮に移る。
 天皇中心、中央集権国家の官人制度、冠位十二階の制(603年)、十七条の憲法(604年)、朝廷儀礼を整え、其して未だ六十六の諸邦(もろくに)に分かれる全ての国号を定める。老練な最高実力者、蘇我馬子(そがのうまこ)との共治政治で在った。
 太子の外交は画期的な出来事で在った。其の象徴は「皇帝」に対す、「天皇」の称号に在る。大陸に強大な隋が出現すると、608年、遣隋使使節の答使を迎え、完成した飛鳥の都を案内する。答使「裴世清(はいせいせい)」に「国書」を手渡す。内容は『日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す』と在った。皇帝は激怒す。帰路同行した「返書」使者は理解して居り、返書を失くしたと報告。然し拝謁し、皇帝は友好的で在ったと適当にか報告す。歴史に使者名留むる。以後歴史上、日本の使者は中身を確認等、纏め役を担う前例が生じた。(上代)
           ずぅ~と、ずぅ~と、お話は続きまあ~す!