「木遣(きや)り研究 其(そ)の③ 嵯峨天皇の皇女3人、斎宮(さいぐう)と賀茂斎院(かもさいいん)」 上代論として、51代嵯峨天皇は810年即位(そくい)。未婚皇女を伊勢の斎宮(さいぐう)へ、もう一人の皇女を伊勢に準(じゅん)ず両賀茂社(りょうかもしゃ)に大神(おおかみ)の御杖代(みつえしろ)として奉仕。賀茂斎院制が嵯峨天皇より設(もう)けられ野宮(のみや)と称(しょう)す紫野院に400年35代に及(およ)び、500名の官人、女官(にょかん)が仕(つか)え造営には伊勢神宮に準じ御杣山(みそまやま)より用材の御神木が伐(き)り出され、木曳(きび)き音頭に木曳き衆(しゅう)で紫野に運ばれた。其処(そこ)で「木遣り音頭に始まり粗筋(あらすじ)」
秦氏(はたし)の渡来先祖が眠る双ヶ岡(ならびがおか)と松尾神社松尾山、伏見稲荷稲荷山の3地点、が秦氏の拠点で在った。嵯峨天皇は空海(くうかい)に、金堂(こんどう)のみの東寺を与え任せる。
空海は、講堂の建設と次に五重塔建設に取り掛かる。五重塔着工に当たり、『東寺の塔を造り奉る材木を曳(ひ)き運ぶ勧進(かんじん)の表』の中で材木を東山で見つけ、僧と人夫(にんぷ)で運んだが巨木が想う様に運べませんと、続く文章の中で朝廷(ちょうてい)と、役所に運搬協力を仰(あお)いで居る。其(そ)の結果、伐採(ばっさい)と運搬に2,490人が動員され、東寺境内(けいだい)に運ばれた然(しか)し、用材に稲荷山の御神木が含(ふく)まれ工事は直(ただ)ちに中止。
其(そ)して50年後、漸(ようや)く五重塔は着工され、境内で当時を偲(しの)び木曳(きび)き音頭、と共に心柱も曳(ひ)かれ以後、寺院建築時に木遣り音頭が唱(うた)い継がれた。(上代)
「万事、見方に依って違う。結果も同じで在る」