「木遣り研究 其の④ 聖徳太子とは」

 「木遣(きや)り研究 其(そ)の④ 聖徳太子(しょうとくたいし)とは」 小生(しょうせい)の工務店事務所に太子(たいし)様が居(お)られます、御写真ですが。聖徳太子(しょうとくたいし)は工務店の神様で在る。先月より、組合有志にて太子堂の月参(つきまい)りに参加、皆(みな)で大きな声でと教(おし)えられ遠くへ声を飛ばす様に『般若心経(はんにゃしんきょう)』を唱(とな)える。我が意を得たりと習(なら)い念願の想いも叶(かな)う。
 聖徳太子(547~622)第31代用命(ようめい)天皇の厩戸皇子(うまやどのおうじ)。厩(うまや)で産まれた訳(わけ)では在りません。33代、初の女王、推古(すいこ)天皇即位す翌年、聖徳太子は皇太子と成る弱冠二十歳(じゃっかんはたち)。老練(とうれん)な最高実力者、蘇我馬子(そがのうまこ)と共治(きょうち)政治で在る。聖徳太子に弟、来目皇子(くめのおうじ)も又、聖徳太子以上に聡明(そうめい)な実子の山背大兄王(やませのおおえおう)が居たが、蘇我蝦夷(そがのえみし)に攻(せ)められ斑鳩宮(いかるがきゅう)は焼亡(しょうぼう)、其(そ)の後に自殺する。太子は推古天皇の後継で在ったが49歳で亡くなり4年後に馬子が亡くなる。太子の山背大兄王が蘇我馬子の葬儀を執(と)り行う、今の飛鳥(あすか)の石舞台(いしぶたい)が馬子の墓です。馬子より太子が短命だったのが残念で在る。聖徳太子と言えば607年、遣隋使(けんずいし)を送り翌年、答使(とうし)の裴世清(はいせいせい)を飛鳥の都に迎(むか)え飛鳥寺も見せて居る。答使の帰り、同行使者に国書(こくしょ)を第二代皇帝、煬帝(ようてい)(569~618)は『日出(ひいず)る処(ところ)の天子(てんし)、書を日没(ぼっ)する処の天子に致(いた)す』に、激怒(げきど)したと言う。皇帝に対しては天皇か。(上代)
           「活性化とは、地域の人達が満たされ、幸せに為る事で在る」