「木遣り研究 其の② 聖徳太子と仏教建築」

 「木遣(きや)り研究 其(そ)の② 聖徳太子(しょうとくたいし)と仏教建築」 聖徳太子(しょうとくたいし)は大工(だいく)の神様で、差し金(矩尺(かねじゃく))を考案したと伝(つた)い、何故(なぜ)か今の差し金をを持つ太子像をよく見る。
 確かに歴史的に観(み)れば十分考えられる。第31代、用明(ようめい)天皇の2年(587)皇子の聖徳太子は、其(そ)れまで進んだ仏像の無い「大陸式建築」の仏教建築は在ったが最高実力者、蘇我馬子(そがのうまこ)の氏寺(うじでら)で日本最初の仏教建築、飛鳥寺(あすかでら)が友好国、百済(くだら)から寺工、十露盤博士(そろばんはかせ)、瓦博士、画工、暦(こよみ)博士(日食等)仏舎利(ぶっしゃり)(釈迦(しゃか)の米状骨)と共に技術者が渡来(とらい)し587年に起工した。10年余年を経(へ)て完成。聖徳太子の氏寺、法隆寺も其の10年後完成した。法隆寺着工時の推古(すいこ)10年(602)百済の僧、観勒(かんろく)は数学や十露盤、暦天文学の書物を持参し何人かに教えたと記録、蘇我馬子と共治政治を執(と)る聡明(そうめい)な聖徳太子も含(ふく)まれ技術を学(まな)んだ。差し金、墨壺(すみつぼ)等の道具に知恵を出して考案しても間違い無いのでは。
 因(ちな)みに百済(くだら)から伝わる仏教建築は大陸の宮殿建築で雲肘木(くもひじき)等は格式が高く、仏教建築に雲肘木は使えず多連斗拱(ときょう)は支柱(しちゅう)で受ける。既(すで)に白木で日本独自の宮殿が在り大陸の宮殿建築は飛鳥寺で建てられ、以後の寺院建築様式とした。
 日本の寺院は大陸の寺院と較(くら)べ、高度な技術に依(よ)り建てられて居る。(上代)
           「混在の美とは、曖昧な連続性とコミュニケーションの生活感」