『京町家』のお話。其の40 室町中期に京町家の原型見ゆ。

 実力在れば主人に取って代わる「下克上(げこくじょう)」。戦国時代、一乗谷朝倉氏(いちじょうだにあさくらし)、共に始まり終焉(しゅうえん)
 一乗谷朝倉氏四代当主(とうしゅ)の孝景(たかかげ)は、弱体化した室町幕府を支(ささえ)え、山中の城下町に雅(みやび)やかな文化の華(はな)を咲かせた。室町中期、京の都(みやこ)の様子を、京の都を真似(まね)て町並みを造営、100年後絶(た)えて三日三晩炎(ほのお)に包(つつ)まれ土が入れられた。
 室町中期、当時の京の都の様子を一乗谷に、町屋も真似て造ったで在ろう、故(ゆえ)に今、一乗谷朝倉氏遺跡跡に其(そ)れが再現され、目(ま)の当たりにする事が出来る。此(こ)の一乗谷遺跡の町屋は、当時での『京町家』室町時代後期の姿(すがた)で在ろう。
 先(ま)ず、約一㍍間隔の柱下に自然の礎石(そせき)で水糸(みずいと)を張り並(なら)べ、半土間半板間造(づくり)の平屋板葺屋根の、当時より製材の概念(がいねん)も在り、縦に板が重(かさ)ね葺(ふ)かれて強風で飛ば無い様に桟(さん)に重し石を載(の)せ並べる。故に耐震の必要も生ず。竹小舞編(たけこまいあみ)の土塗籠真壁(つちぬりこめしんかべ)、楔(くさび)付貫(ぬき)の構造で在る。鎌倉時代より水平力には貫(ぬき)が受ける、耐震構造概念で在った。床上(ゆかうえ)板間部は足固(あしがた)め土台が礎石に直接据(す)えて置かれ、柱が立つ。土間(三和土(たたき))部は直接柱が礎石に石端立(いしばだ)てに建てられ今に見る。京町家の建て方と同様、此れは明(あきら)かに「京町家」の原型だと言える。(上代)
          決して興奮し無い。決して油断し無い。