「故、諸富一郎宗家(そうけ)は何を伝(つた)えんと駆(か)けたのか」 其(そ)れは、生きる歓(よろこ)びを伝(つた)えんと駆(か)けられたと感じ、確信する。実は最近、宗家の一節(いっせつ)の一部と想われる詩吟の出だしに一部に取り入れた「落とし節(ぶし)」の触(さわ)りを教(おし)えられました。(宗家の存命中はよく聴きましたが余(あま)り身に着(つ)け様とは考えて居(お)らずに居た)然(しか)し、出だしの小節(こぶし)は面白(おもしろ)く感じ、身に着け様と吟(ぎん)じて見ますと、此れが予想以上に詩の内容に入り込み、深い詩吟の心情に浸(ひた)る事が出来る様に成りました。詩吟と言うものは、最初の出だしの一節の調子で最後までの詩情が形成するので、出だし部で一気に入る事が出来るかどうかに掛かっている。如何(どう)しても力(ちから)が入り過(す)ぎ、初(はじ)めに其(そ)れが掴(つか)めると最後まで表現する事が出来ます。
何か、楽しく吟じられ生きて居る歓(よろこ)びを確かに感じる又、其(そ)れを吟じる事に依(よ)り高見に上(のぼ)る事も出来、己(おのれ)の感動を伝える事が可能と為(な)るので在ろうか。
宗家は己(おのれ)が感動してこそ感動は伝えられると言われた。己に代(かわ)って吟じさせられて居る様にも考えられる。何故(なぜ)、「落とし節」がよいのか解(わか)らないが、気持ちと身体が合一(ごういつ)すれば何かが起こるのかも知れない。感じた儘(まま)に、表現出来れば良いのだが難(むずか)しい。己を捨(す)てて、無心(むしん)に為(な)る事で在ろうか。(上代)
「小節(こぶし)は神への祈り、と言う」