『今週も能と狂言に親しみて、能舞台は遠近感と音響等を訴う』

 『今週も能と狂言に親しみて、能舞台は遠近感と音響等を訴う』 能と狂言は、特に能は人の生き様を現すのか。先週は岡崎の観世会館で亦、能と狂言を楽しむ。目当ては野村萬斎の発声と能舞台の板鏡、堂本印象画伯の目出度い幹の亀甲に割れる老松、背景画の鑑賞で在る。狂言は声を如何に己を遠くに飛ばせるかに重きを置いている。小生は永く詩吟に親しみ発声に研究を怠ら無い。さすが野村萬斎、激やせの様だが、声はよく通って居た。
 堂本印象の老松で在るが、簡単に描かれて居る様に見えるが然し、浮き上がって観える。鏡板に画く時は字の如く鏡に書くのである。詰まり能舞台では手前の松が映り込んで居るので在り、袖の潜り戸の鏡板には竹が描かれ、対面する庭の竹が映る。観客席の松と竹等が映って居るのかも知れない。鏡板には其の様な意味が在り、橋掛かりでは少し勾配が付けて在ります。遠近感を強調し、奥を上げるのが一般的で下げる所もある。若松と老松との対比もあり、音響効果では床下に甕が五つ、橋掛かりに三個埋めて、床の響き等、声の響きに効果を狙っているのか。特に背景の老松の浮き上がりと橋掛かりの遠近感が命で在るのか改めて能のクライマックス迫力に驚いた。(上代)
           「地域の発展には、景観も欠かせない」