『借入も無いが金も無い、然し歴史欠如の京町家は許せない』

 『借入(かりいれ)も無いが金(かね)も無い、然(しか)し歴史欠如(けつじょ)の京町家は許(ゆる)せない』 小生(しょうせい)に金(かね)は無いが然(しか)し、何でも大概(たいがい)のものは在ると想う。其(そ)れで何が在るのかと言えば例(たと)えば、裏庭に松と梅と竹がある。此(こ)の松はお金を掛けて手入れを余り庭師(にわし)のお世話になって居ないので元の形は崩(くず)れ伸び放題(ほうだい)である。生命力が在ると言うのか、大きくなり過ぎて幹(みき)の途中で折れて口が開き水も溜(た)まって居るが辛(かろ)うじて、作業場の上屋(うわや)の上に乗っかって成長を続けている。其(そ)の松毬(まつぼっくり)の多さに驚(おどろ)かせる一時、松枯(まつが)れしそうに為(な)ったが何とか盛り返した。
 「松竹梅(しょうちくばい)」が何故(なぜ)、目出度(めでた)いのかは其(そ)の生命力の強さを以(もっ)て例(たと)えられる。五月に入れば天空(てんくう)を目指(めざ)す枝の成長が顕著(けんちょ)で、一気に枝の先が伸びて行く。松の足元に小池もある。此の中庭のお陰で夏の座敷は風が通って涼(すず)しい一応(いちおう)、京町家の形態(けいたい)を取って居る。ハッキリ言って「京町家」と名乗(なの)れるのは中庭(なかにわ)が無ければ京町家と呼(よ)べず何故ならば生命力を指(さ)すので在って、京町家と銘打(めいう)って安普請(やすふしん)を売っているのは価値観、歴史観も欠如(けつじょ)し其(そ)の生命力の滲(にじ)み出す其(そ)の気配(けはい)に気が付かないのは愚(おろ)かと云(い)わざるを得(え)ないと感じる。(上代)
           「失意泰然(しついたいぜん)