『日本の住居をダメにしたのは、数寄屋建築で在る』

 『日本の住居をダメにしたのは、数寄屋(すきや)建築で在る』 欧米の様に武骨(ぶこつ)な長持ちする民芸調(みんげいちょう)住居は少なく、日本では京の都(みやこ)の数奇屋(すきや)建築は好まれる。日本の住居建築は詰(つ)まり、頑丈(がんじょう)では無く「花車(きゃしゃ)」の構造体は、か細(ほそ)く上品(じょうひん)で数奇屋建築の様相(ようそう)を呈(てい)して居る。柱は少なくとも四寸(よんすん)は必要で細過(ほそす)ぎる。
 平安末期1185年5月頃、東寺西寺(とうじさいじ)の五重塔を残し壊滅(かいめつ)。平家は壇ノ浦(だんのうら)に沈み二か月後に都(みやこ)は大地震に見舞(みま)われ平清盛の祟(たた)りだと言われた。記録は残されて居て、藤原定家の明月記(めいげつき)や、方丈記(ほうじょうき)に克明(こくめい)に様子が記(しる)されて居る。実体験し、建物の水平耐震性に付いて力貫(ちからぬき)や外長押(そとなげし)の必要性を訴(うった)えて居た。
 1192年、鎌倉時代に入ると耐震性は重(おも)んじられ、社寺建築は力貫等(ちからぬきとう)で水平耐力は増すが然(しか)し、数奇屋建築そして茶室建築の発展により住宅建築は相変(あいか)わらず花車(きゃしゃ)で在る。柱は細く、力貫(ちからぬき)は壁下地(かべしたじ)に為(な)り下(さ)がり小舞竹(こまいだけ)の一部と為(な)る嘆(なげ)かわしい事実で、力貫は只(ただ)の貫板(ぬきいた)と為(な)り壁は無(む)と成り野辺(のべ)に佇(たたず)む。
 構造体の耐用年数に柱の太さは深く係(かかわ)って居る。柱の太さで力貫が入り、ダブル壁下地が着く。柱が太く為(な)ると民芸調と成り、花車(きゃしゃ)な感じは失われる。丈夫(じょうぶ)な民芸調を捨(す)ててでも都(みやこ)の上品(じょうひん)さを今も追い求めて居るのか。(上代)
           「心地より生活にひたら無い事」