『母校、京都建築専門学校と、己を顧みて、』

『母校、京都建築専門学校と、己(おのれ)を顧(かえり)みて、』 齢(よわい)、65に達(たっ)し、本人二十歳過(はたちす)ぎと本気で想う。一応の節目も感じ日々、楽しくも過(す)ごさせて頂いて居ります。顧(かえり)みすれば大層(たいそう)、時間重(かさ)ねた感が在ります。小生(しょうせい)、十歳小四の時、テレビで初めて「詩吟(しぎん)」に出会い其(そ)の天(てん)に向かう声に感動しテロップ、漢詩(かんし)が流れ己(おのれ)の成(な)すべきと直観(ちょっかん)した。漸(ようや)く詩吟を目(ま)の当たりにしたのが二十四歳、直(す)ぐに入門し四十一年が過(す)ぎました。漢詩と和歌(わか)も少しは覚(おぼ)える。
家業が工務店で全日制始まる当時の京都建築工業学校に入学、堀川下立売へバスで3年間、堀川柳並木と国際ホテルに外人がちらほら風景を楽しんだ。
私の人生で一番大きな出来事は、建築史を現、京都工芸繊維大学の中村昌生名誉教授に習った事で、授業は竪穴式(たてあなしき)、其(そ)して数寄屋(すきや)建築に進み何故(なぜ)、数寄屋と呼(よ)ぶのか質問すると貴族の嗜(たしな)みで神々を讃(たたえる)える和歌57577を詠(よ)み較(くら)べた、離(はな)れだと丁寧(ていねい)に教えられる。既(すで)に和歌等齧(かじ)って居た私は、今でも建築歴史が、詩吟が私の人生を支(ささ)えて居(お)ります。外(ほか)に教師陣は組合の先達(せんだつ)が努力され京大、建築科の教授を終えた先生方が多数、伝統的に京都建築専門学校の教鞭(きょうべん)を執(と)られて居る。故、相原先生には特に感謝して居り有難う御座いました。(上代)
「出来ると思えば出来、出来ないと思えば出来無い」