『邪馬台国の卑弥呼に金印が在ったと言う』

 『邪馬台国(やまたいこく)の卑弥呼(ひみこ)に金印(きんいん)が在ったと言う』 【親魏倭王(しんぎのわおう)】と記(しる)された、四角い卑弥呼(ひみこ)の金印(きんいん)で在る。239年に卑弥呼、魏(ぎ)に使者を送る。220年に後漢(ごかん)が滅亡(めつぼう)して以来、東アジアは動乱(どうらん)の時代を迎(むか)えた。238年、魏(ぎ)が勢力を拡大。情勢の変化を察知(さっち)した第七代孝霊(こうれい)天皇は倭(わ)の女王、卑弥呼(ひみこ)の名で魏に遣使(けんし)を送り三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)など銅鏡(どうきょう)百枚を手に入れる。又、暦歴(こよみれき)に依(よ)って間もなく訪(おとず)れる日食の情報も得(え)て、冊封国(さつふうこく)として金印も得た。其(そ)れらも使い倭国(わこく)統一を進めたと言う。第七代孝霊(こうれい)天皇の皇女が邪馬台国(やまたいこく)の卑弥呼(ひみこ)だと言う。第三代安寧(あんねい)天皇の曾孫(そまご)に当たる倭国香媛(やまとのくにかひめ)との間(あいだ)に生まれたのが卑弥呼。弟に吉備津彦(きびつひこ)(岡山の吉備津(きびつ)神社に祀(まつ)られて居る)もう一人の弟が後(のち)の第八代孝元(こうげん)天皇。倭国(わこく)統一を目指(めざ)した孝霊天皇。当時、日本に100余(あま)りの国が在り交易(こうえき)の利権を独占する為(ため)にも倭国王(わこくおう)と言う権威(けんい)は必要で在った。第七代孝霊天皇は倭国統一へと駆(か)り立てる。然(しか)し、248年、卑弥呼の死により挫折(ざせつ)。孝霊天皇は自(みずか)ら倭国王に立とうとするが為(な)らず忽(たちま)ち争(あらそ)いが始まり後、第八代孝元(こうげん)天皇の皇女、壱与(いよ)を倭国(わこく)二代目女王にする事で妥協(だきょう)成立。魏志倭人伝(ぎしわじんでん)は伝(つた)う壱与(いよ)十三歳。続く第九代開化(かいか)天皇も壱与を擁(よう)した。(上代)
            「卑弥呼のお話で、一番分かり易いと想います」

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