『想い遣る心が「おもてなし」の心か。』

 『想い遣(や)る心(こころ)が「おもてなし」の心か。』 「おもてなし」とは以前の茶道(さどう)での後(あと)の段(だん)の接待(せったい)に想い遣(や)る心(こころ)を表(あらわ)したもので大層(たいそう)に為(な)らず自然に振舞(ふるま)えれば良いのか。逆(ぎゃく)の「おもてなし」は「面(おもて)を冒(おか)す」相手の気持ちに逆(さか)らう事を気にしない様子で①お迎(むか)えが出来て居ない。②相手との違(ちが)いを分(わ)かって居ない。③相手の気持ちを想(おも)い遣(や)って居ない。例(たと)えば、相手の気持ち個性なりを無視して居る。相手の気持ちを理解しようとか汲(く)み取ろうとかを考えて居ない。時に物事の筋道や訳(わけ)を考えて正しく知ろうとする事も為(な)されて居ない等、ではダメで在る。出来るだけ相手に対して理解に努(つと)め接(せっ)する事で先(ま)づ、来て頂(いただ)ければ真っ先に明るい挨拶(あいさつ)、其(そ)して名刺交換楽しくお迎(むか)えして案内。
 要するに相手を無視せず出来るだけ知る理解をする個性の違(ちが)いを汲(く)み取る。相手を想い遣りお相手に努める「おもてなし」の心とはどの様な心で在ろう。想い遣るとはどの様な心なのか。例えば、「違いを認めて、敬意を表する事で在ろうか」明るく楽しく接する事が第一で在ろう。お別れも又、お会い出来る事を楽しみにして居るが伝われば良いのか。やはり「三和(さんわ)」の連係(れんけい)プレイ、①迎える心、②違いを認め合う心、③想い遣る心、が大切で在ろう。(上代)
           神々が見護る中、法則に従(したが)って、決められるのか。