数奇屋建築「茶数寄」の小間と大間の「歌数寄」とは。

 数奇屋(すきや)建築「茶数寄(ちゃすき)」の小間(こま)と大間(おおま)の「歌数寄(うたすき)」とは。 茶室(ちゃしつ)も書院造(しょいんづくり)もどちらも数奇屋(すきや)建築で茶室の小間は茶数寄(ちゃすき)、書院造の大間は歌数寄(うたすき)が原点。
 数奇屋は奈良末期万葉(まんよう)の時代より支配者層の寝殿造(しんでんづくり)に於(お)いて風流な池、汀(みぎわ)も設(しつら)え貴族の嗜(たしな)みとして神々の美しさ自然を讃(たた)える和歌(わか)や漢詩(かんし)、物語等を詠(よ)んだ。要(よう)するに数奇屋(すきや)とは貴族が和歌を詠(よ)み較(くら)べて興(きょう)づる建物で在る。
 武家社会に移り以後、室町、桃山時代に茶会が盛んと為(な)り、田舎造(いなかづくり)の茶室が造られ、武家や寺院では競(きそ)って茶の流行と共に茶室の小間(こま)や、歌を詠(よ)んで居た歌数寄(うたすき)の大間(おおま)の書院造も造られる。茶会の後(あと)の段(だん)を歌会(うたかい)と称(しょう)し、親睦(しんぼく)の宴「おもてなし」の場へと続く書院造は座敷と成り、格式化し数寄(すき)は薄(うす)れる。
 茶室の小間と宴席の書院造の大間は、一体の隣(とな)り合わせに造られ和心(わごころ)で、①迎(むか)える心、枝折戸(しおりど)から入り細い路地の敷石(しきいし)、先(ま)ず茶室の躙(にじ)り口より恭(うやうや)しく迎(むか)え茶会が、②違(ちが)いを認め合う心(こころ)で心身も研(と)ぎ澄(す)まし一期一会(いちごいちえ)を交(か)わすのか。又、後(あと)の段(だん)の親睦(しんぼく)「おもてなし」は見事な庭を眺(なが)め隣の書院造の大間にての一連(いちれん)の接待(せったい)も「和の心」①迎(むか)える心②違(ちが)いを認め合う心③想(おも)い遣る心、に例(たと)えたが明治初頭(しょとう)の壬申(じんしん)の検査で遊興(ゆうきょう)と看做(みな)され一旦疎外(そがい)される。(上代)
           「道」には全て、前段と後の段が有る。