『和の心とは、違いを認め合う心で在る。』

 『和(わ)の心とは、違(ちが)いを認め合う心で在る。』 違(ちが)いを認め合い、心を通(かよ)わすが肝要(かんよう)で在る。和心(わごころ)とは違いを認め合い、心を通(かよ)わす事で、何故(なぜ)か一般に理解されて居ない。和(わ)の心が在れば通(つう)じ合え決して主張、個性は前に出さず。
 日本では古来より、其(そ)の土地の大自然の神々と国内を統一した神を擁(よう)する。又、国を固め治(おさ)める為(ため)には共通の宗教、此の新しい仏教が伝わり取り入れた。幸運にも神道(しんとう)と仏教は時を置いて大宇宙の太陽神、大日如来(だいにちにょらい)の元に神と仏(ほとけ)が天照大神(あまてらすおおみかみ)も習合(しゅうごう)し、日本国は空海(くうかい)に依り救われた。和(わ)の心とは歴史から培(つちか)われたものか。和の心とは、第一に迎(むか)える心。第二に違(ちが)いを認める心。第三に想い遣(や)る心で、是(これ)を「三和(さんわ)」と呼(よ)ぶ。三和とは連係(れんけい)プレイを意味する。
 然(しか)し、前提(ぜんてい)として自立(じりつ)して居る事を求められる。自立するとは何か。違いを認め合うには自立を必要とする。要するに主体的に生きる事で在ろう。相交(あいまじ)わり自己の責任を果(はた)す。利己(りこ)主義の克服(こくふく)で在ろうか修養(しゅうよう)を積む必要も在る。
 和の心とは、違いを認め合う事で在り、心を通(かよ)わす事で、文化人としては必要不可欠で在ろう。茶道等や全(すべ)ての技芸(ぎげい)、スポーツにも職人技(しょくにんわざ)にも商売にも当て嵌(は)まるのか。迎(むか)える心、違(ちが)いを認める心、想い遣(や)る心で在る。(上代)
            「大日如来とは誰なのか」