『斗拱研究 其の⑦ 持出し飛燕垂木の発明と野垂木登場』

 『斗拱研究 其の⑦ 持(も)ち出し飛燕垂木(ひえんだるき)の発明と野垂木(のだるき)登場』 奈良時代(710~783年)に入ると大陸との交通は開かれ当時、唐(とう)の最新の建築技術や様式が輸入され遅れを一気取り戻(もど)す事が出来た。然(しか)し既(すで)に軒裏(のきうら)を飾(かざ)る「飛燕垂木(ひえんだるき)」は軒(のき)の出を深くする為(ため)に考案されて居た。軒の出を二重にする屋根下地、野垂木(のだるき)の勾配(こうばい)も屋根裏も深く高く、軒をも厚くする必要も在った。
 此の二段構(がま)えの飛燕(ひえん)垂木の概念(がいねん)は紀元前1万1千年よりの縄文(じょうもん)時代より、竪穴式(たてあなしき)住居に遡(さかのぼ)る。太古よりの住宅建築概念の構造様式で目にも焼き付き、屋根を覆(おお)う丸太組み地垂木(じたるき)に準ず丸太を、二段に掛(か)ける飛燕垂木と地垂木を掛(か)ける様式は飛鳥(あすか)建築に留(とど)める。竪穴式住居様式も踏襲(とうしゅう)す飛鳥(あすか)の寺院建築では特徴(とくちょう)として、化粧材の地垂木が飛燕垂木のどちらかを丸太の垂木(たるき)で使う。平安中期頃までの竪穴式住居にて丸太での屋根下地組が基本の名残(なごり)で在ろう。
 日本では高温多雨で、大陸より深い軒と熱をも遮(さえぎ)る厚みが必要で在った。軒の出に空間が生じると、重くて深い軒を支(ささ)える為(ため)、屋根裏の隠(かく)れた天秤粱(てんびんばり)の拮木(はねぎ)の発明を呼(よ)び懐(ふところ)も生じた。拮木は斜(なな)め材で天秤粱の尾垂木(おだるき)から生ず。拮木(はねぎ)は時代が下(くだ)る鎌倉時代に考案されるが飛燕垂木(ひえんだるき)は飛鳥時代に生ず。(上代)
           「使命観と倫理観を以って。」