『斗拱研究 其の⑤ 大陸式建築は仏教建築で斗拱は無い』

 『斗拱(ときょう)研究 其の⑤ 大陸式建築は仏教建築で斗拱(ときょう)は無い』 仏教はインドより中国に伝わり日本に伝わったが、仏教建築とは仏教独特では無く、中国の建築技術一般で在った。「大陸式建築」を指(さ)す、其(そ)の基本は日本にも伝わる。中央のモヤ、身舎(もや)を取り囲(かこ)む庇(ひさし)部とから成り雲肘木(くもひじき)等、桝組(ますぐみ)は無い。
 「大陸式建築」は礎石(そせき)の上に柱が立ち、身舎(もや)には大虹梁(だいこうりょう)上に又首棹(さすざお)、割束(わりづか)が棟木(むなぎ)を受け、軒先の地垂木(じたるき)に飛燕垂木(ひえんだるき)が跳(は)ねる。此の大陸式仏教建築を基本に、日本初の寺院建築で在る飛鳥京の飛鳥(あすか)寺(596年完成)は百済(くだら)の都、扶余(ぶよ)の宮殿建築技術者等多数渡来帰化(とらいきか)。日本の寺院建築様式は大陸式建築と宮殿建築が合わさり完成する。斗拱は格式高く雲肘木は宮殿建築のみに許(ゆる)される。
 飛鳥寺は最高実力者、蘇我馬子(そがのうまこ)の氏寺(うじでら)として建立(こんりゅう)、10年後に聖徳太子の氏寺、法隆寺も飛鳥寺を手本に建立される。最初の女帝、第33代推古(すいこ)天皇の時代で在った。以後、日本の寺院様式と為(な)り、高度な建築技術は伝わった。
 「大陸式建築」は、大和(やまと)政権が国内統一を進め、350~400年には朝鮮半島まで勢力が伸ばされる。150年頃より倭国大乱(わこくたいらん)、鉄を求め大陸一部と直接触れ合ったので今までより大陸文化がより早く伝わる様に為った。(上代)
     倫理では「苦難福門」と呼び、楽な道より、苦難の道を歩めと言う。