『斗拱研究 其の④ 宮殿建築が寺院様式へと伝う。』

 『斗拱(ときょう)研究 其(そ)の④ 宮殿建築が寺院様式として伝(つた)う。』 538年、百済(くだら)の聖明王が日本に仏像、経典(きょうてん)を贈(おく)り仏教を伝えた。其(そ)の年は百済の都(みやこ)を熊津(くまなり)から扶余(ぶよ)に遷(うつ)した年で、釈迦(しゃか)が滅(めっ)したは紀元前462年と想われ、没後、一千年~二千年後に末法(まっぽう)が訪(おとず)れると信じられた。【末法(まっぽう)思想、仏(ほとけ)のご加護から見放(みはな)される。】紀元前462年の一千年後は538年に当たり、末法思想期に入るので、百済は命運を掛け都も遷したか。又、日本との国交を重ねて、改善する為(ため)に仏教を伝え、仏舎利(ぶっしゃり)も送ったので在ろう。(660年、百済滅亡)
 日本初の寺院、飛鳥寺(あすかでら)(法興時(ほうこうじ))は仏教の保護者で、蘇我馬子(そがのうまこ)の氏寺(うじでら)を大和(やまと)政権に依り建立(こんりゅう)される、596年完成した。百済(くだら)より渡来した僧や技術者は、瓦博士、十露盤(そろばん)博士、画士(がし)、暦博士(こよみはかせ)(天体運行や日食等)、寺工(てらたくみ)等で多数帰化(きか)
 百済の都、扶余(ぶよ)の宮殿建築を技術者も使わせ伝える。日本では宮殿建築は、古来より白木(しらき)で造られる為、寺院建築は高度な技術の宮殿建築様式に依り、飛鳥寺は建てられた。10年後に聖徳太子の氏寺、法隆寺も飛鳥寺を手本に建てられ以後、日本の寺院建築様式と為る。宮殿建築にしか許され無い挿肘木(さしひじき)(雲肘木(くもひじき))の斗拱(ときょう)は寺院建築様式での軒裏(のきうら)を飾(かざ)る代名詞と為(な)り得た。(上代)
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