『斗拱(ときょう)研究 其の② 原型は雲肘木と丸桁の組合せ』 

 『斗拱(ときょう)研究 其(そ)の② 原型は、雲肘木(くもひじき)と丸桁(がんぎょう)の組合せ。』 斗拱(ときょう)はどの様な経緯(けいい)で生まれ、日本に伝わったのか。斗拱の原形とは発明された雲肘木(くもひじき)と軒(のき)の棰木(たるき)を受ける丸桁(がんぎょう)の組合せから、設(もう)けられたのは紀元前後で在ろう。
 中国では、軒の出を深くする方法として挿肘木(さしひじき)(雲肘木)を迫(せ)り出させ棰木を受ける丸桁と呼(よ)ぶ梁の組合せから始まった。尚(なお)も迫り出す為(ため)には棰木受けの丸桁、其(そ)れを受ける尾棰木(おだるき)と呼ぶ斜(ななめ)めに下げる、天秤梁(てんびんばり)も工夫された。然(しか)し、此れでも直(す)ぐに垂(た)れて来るので其の下に支柱列を立てて配(はい)する。此れが始まりで側柱列(そくちゅうれつ)を並(なら)べる様に為(な)り外(そと)回廊で深い軒の出を実現させ、側柱の上に側桁(そくけた)を懸(か)け、方杖(ほうづえ)でも在る多連斗拱(たれんときょう)を組みて棰木受けの丸桁も載(の)せる。
 日本では奈良時代(710~793年)、唐(とう)の国から文化や技術が直接輸入されて、斗拱も直ぐに新に伝わり、様式も唐様(からよう)に替わりて其して進化した。多雨(たう)や日差し等、気候の面からも日本ではもっと深い軒の出が必要で在った。挿肘木を二重にして尾棰木の斜め下げ梁を掛け、棰木受けの丸業を載せる。化粧地棰木(じたるき)、飛燕棰木(ひえんたるき)、野棰木(のだるき)と順に持ち出して行く。日本の寺院神社建築の深い軒の出を支(ささ)える「拮木(はねぎ)」の出現までに未(ま)だ時の流れが必要です。(上代)
           「斗拱の研究は面白い。」