『京町家』のお話。其の24 平安京へ、廃都重ね北上せり。

 古代日本の国造(くにづくり)は水稲(すいとう)と伴(とも)に四季の営(いとな)みが始まり儀式等も為(な)る。神話に基(もと)づきて、都(みやこ)は水田に適す湿地帯に置かれ、葦(よし)の生(お)い茂る水の豊かな地に排水路を設(もう)け、先(ま)ず水田が開かれる。廃都(はいと)を重(かさ)ね漸(ようや)く京都に794年、第49代桓武(かんむ)天皇は葦の茂る小川が集まり水の都と言え、南にも沼地が広がる此の、葛野宇多村(かどのうだむら)に平安京の鍬入(くわい)れす。然(しか)し直(す)ぐに、平安中期には唐(とう)の都に因(ちな)んだ長安(ちょうあん)と呼(よ)ぶ西側は湿地帯の為(ため)廃れ(すた)、朱雀大路(すざくおおじ)は運河(うんが)と化す。東側は洛陽(らくよう)と呼び栄えた。(東西に長安と洛陽が並(なら)んで居り、因んで呼ぶ。)故(ゆえ)に京都を洛陽とも言う。
 当時は『豊葦原瑞穂国(とよよしはらみずほのくに)』前提で其(そ)の前10年で、長岡京は南東に淀川在り水運や下排水(当時トイレは水洗で側溝の細い水路に跨(また)ぎ流すか穴に埋(う)めた。)に適すると思われたが、二度の洪水に見舞われ廃都。其の前の、平城京は(710年遷都(せんと))南に小川も流れ、湿地帯で葦原(あしはら)が広がり、排水路も設けられるが小川では細く充分に排水出来ず、74年で環境悪化が進み廃都される。其の前、藤原京(ふじわらきょう)に至(いた)っては川も無く窪地(くぼち)に在る為(ため)、忽(たちまち)ち悪化16年で廃都。
 建物は次の都へ移築されるが「廃都」は土を入れ埋め清められる。(上代)
         心豊かに、そして極めんと欲す。