『篠の目』とは壁下地編「土塗籠壁」下地窓「東雲」です。

 『篠(しの)の目』とは壁下地編(あ)み「土塗籠壁(つちぬりこめかべ)」下地窓「東雲(しののめ)」です。日本住居の、原形は縄文(じょうもん)(紀元前一万一千年~前500年)より竪穴式(たてあなしき)住居で始まり弥生(やよい)時代(前400~後300年)環状(かんじょう)集落から環濠(かんごう)集落に移った。末期に、大和(やまと)政権が支配、争(あらそ)いも納(おさ)まり、ほぼ安定的暮らしに替わる。水田と共に庶民の住居も外に拡がり、土間を堀下げ無い、周提(しゅうてい)型腰壁の、土塁(どるい)(盛り土の砦(とりで))式壁立式(へきりつしき)竪穴住居へと変り屋根も上がり、「版築(ばんちく)工法」で住居は形造(かたちづく)られた。
 土間床も版築(ばんちく)で複数の土を重ね滑(なめ)らかに仕上げ、茵(しとね)と呼ぶ敷物を敷いて家族単位で暮らした。古墳時代にカマドも伝わって居る。壁立腰壁の内面は葦簾(よしず)で囲(かこ)み靠(もた)れる。「版築工法」は柱を芯にして双両方から関木(せきぼく)に紐(ひも)を掛け水平、幅を合わせ積み重ね、複数の土を幾重(いくえ)にも突き固めた。筵(むしろ)等も入れ補強する。
 高さは90cm位(くらい)で、篠竹(しのたけ)を格子状に編んで丈夫に造られた「土塗籠大壁」の原型で在る。篠竹の下地、格子編を(しののめ)と呼ぶ、東向き腰壁の周提上に水甕(みずがめ)を埋め据え付け排水も設け石皿(いしざら)と石包丁も在る。「はしり」と呼ぶ「流し台」で、砂の混(ま)じる食物には難儀(なんぎ)した様で水も使い磨潰(すりつぶ)す。少し下の排水口用下地窓を「東雲(しののめ)」と呼ぶ、紫に明ける空雲を見詰(みつ)め安堵(あんど)した。(上代)
     此れより『京町家』をテーマ、切り口に、お話を進めたいと想います。