己(おのれ)の大きな向上は、己を空(むな)しくする事に在る。

 「胸をはりて、腰立(ようりつ)せよ。自我を捨て、空(むな)しくせよ。」無我の境地「無心」は、どの様な「心構え」なのか。無心とは「集中の極(きわ)み」と言う。瞑想(めいそう)では無く、覚醒(かくせい)で在る事には間違い無く、心で雑念を無くす事なのか。生死観に起因(きいん)するもので在ろうか。
 其(そ)れで、無我の境地の「無心」とは、どの様な心の持ち様なのか。私は今迄(まで)「精神的な心構え」が出来て居なくて、どちらかと言うと瞑想に近い構(かま)えから無造作に出て仕舞う始末で散漫(さんまん)に為(な)って居り、逆で在ったと想う。其(そ)れで、「無心は集中の極み」とは、どう言う事なのか。無心の状態は「集中」で在ろうか。「無心と集中」は相反(あいはん)すると想えるが、無心に為るにも集中力が必要なのか。どの様な集中力が必要で、どの様に雑念を無くし、己(おのれ)を無くするのか。『己の大きな向上、躍進(やくしん)、完成は、己を空しくする事で在る。』自他一如(じたいちにょ)(天地が己と為る。)、捨我(しゃが)(自分を捨てる事。)の絶対境で在る。』と言う。己を空しくすれば、天地と己が一体と為り、全てが観えるので在ろうか。天地と一体とは、何か。壮大(そうだい)である事か。到達する覚醒する事か。構築する事か。繋(つな)がる事か。ビックバンの事か。137億年前に還(かえ)る事なのか。(上代)
           何処から来て、何処へ行こうとして居るのか。