『発声力は、感動を伝え、文章力は真実、誠を伝えるのか。』

 小生、我が道程は子供の頃に詩吟の「発声」に感動し、ひたすら声を磨きて、其の後は、文章の魅力にも気付き、文章と言えるものを磨く、其の様な人生で在った。
 発声は、36年余、磨き続け、文章は少なく、7年余、磨いて来ました。何の為(ため)に磨いて居るかは良く解(わか)って居りませんでした。我れ今迄(まで)、何の為に発声力を、文章力を磨いて来たので在ろうか。其れが、漸(ようや)く、分かりました。「発声力」は『感動』を伝える為に。「文章力」は『真実、誠』を伝える為に、磨いて来たと。此の現状を打破(だは)するは、文章力に依るのか、声を生かすのか。
 発声での磨きは半端(はんぱ)では無く、最高の指導者に教(おそ)わりて、吟詠家、歴史家、宗教家、朗詠詩人、ソリスト、声楽家に指導を仰(あお)ぎ、発声の「永遠のテーマ」を追い求めて居る。「天、人、地」を貫(つらぬ)き天上へ向かう。小節(こぶし)、ビブラートを一応、身に着ける事も出来、上昇する事も出来た。以前に観(み)たものを、又、観ようと、一心でした。何故(なぜ)、其れを観せられたのかは、よく分から無いが、何か使命が在るのではと想える。其れと今迄、文章をも磨いて来たが、是(これ)もやっと、分かりました。此の現状を伝える方法は文章に依る外(ほか)無しと。(上代)
           存亡の危機を迎えしも、些かも動ぜず。