『謎に迫れるか、「平安遷都造営」のお話』 其の29

 520年、仏教へ関心が深い、梁(りょう)の武帝(ぶてい)はインドよりの高僧「達磨大師」を初めて招き対談。仏教の隆盛するも後、道教が台頭し仏教を呑む。894年、唐の国が衰退してか遣唐使も廃止された。
 万葉の時代より日本文化は平安京を通じ培(つちか)われ、平安中期には「枕草子」「源氏物語」等も表される。中国との違いも如実に現れ「道教」とも決別。中国で「仏教」は道教に吸収され日本では神道が道教を吸収す。インド発、声明(しょうみょう)等々中国南部地域の『禅宗』は天竺(てんじく)様の重源(ちょうげん)に先立ち、栄西(えいさい)が伝う。平安末期の武士勢力は「禅宗」の寺院を建立し、信仰して行った。武士の社会に為りて、都造りにも「禅宗」の影響を受ける。日本文化は『禅ZEN』と極めて密接に繋(つな)がって行く。武士の精神的態度や日本的生活様式、其の美的な特性、道徳的、知的な生活様式も、宗教の枠組みを超えて、本質的な在り方をも追求した、禅的基礎に負う。禅的基礎とは何ぞや。『取り敢(あ)えず、今遣るべき事を、きちんとやり、』又『衣食等の基礎的な生活の事をきちんとこなしきれ、』と言った所からスタートする。日本文化の神髄(しんずい)『和の心』も禅、から生じたと想わる。『和して同ぜず、』違いを認め合う事で在ろう。(上代)
               其の30、に続く。
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