『謎に迫れるか、「平安遷都造営」のお話』 其の28

 今一度、平安京末期の様子を伝う。平安時代中期に入ると勢いに陰りを見せる。大内裏焼失したが、再建へ向け着手された居た980年、羅城門が強風に拠り倒壊し都の中心が消えた。990年原因不明の出火に拠り西寺から火の手が上がる。金堂も講堂も食堂(じきどう)も諸仏も経典も、焼け跡に残ったのは五重塔だけで在った。伽藍配置は、ほぼ東寺と同様で国家鎮護を担(にな)った居た。平安京の西半分は元々、湿地帯で民家も疎(まばら)らで在り加えて荒廃し、朱雀大路も荒れ果てて水路と化す。1168年、都は大火に見舞われ三千個を焼失す。其の夏は干ばつで在った。
 政治は朝廷から藤原一族による摂関(せっかん)(天皇に代わって政治を取った大臣)政治に移って居た。其の後、白河天皇、鳥羽上皇、後白河上皇、高倉上皇、後鳥羽上皇と院政が受け継がれ、白河天皇が鴨川の東に「法勝寺」を建立し居も移す事と為りて都の中心が東に移る。東寺が西端に位置した。間も無く、平清盛が台頭し武家の政治が始まる。武士勢力は『禅宗』の寺院を建立し、信仰して行った。平安末期、1177年再び大極殿、大内裏も焼き尽くす大火に拠り焦土、追い討ちは1185年の元暦大地震に拠り壊滅す。(上代)
               其の29、に続く。
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