『謎に迫れるか、「平安遷都造営」のお話』 其の13

 平安造営を探る、此処に御柱(おんばしら)、登場。飛鳥寺の正面に居を構える老練な最高実力者、蘇我馬子死す。「聖徳太子」の子が陣頭指揮、墳墓が築造さる。(飛鳥の石舞台と思われ、石室のみが残り墳丘は取り除かれて居る。)亡骸を安置する迄の工事期間、傍(かたわ)らに「御柱」が聳(そびえ)え立つ。因みに、推古天皇(豊浦宮で即位)母は蘇我氏の媛(ひめ)
 『御柱』とは何ぞや。古墳に纏(まつわ)わりて、古来より墳丘墓正面、鳥居横に数本立てる「長い杭」で大地の汚れを祓(はら)い、天の神々を迎える目印で在った。
 「聖徳太子」が神仙思想「道教」を導入「天、人、地」三位一体と考え、人体も宇宙、大地も人体生命と捉え、墳墓の中、大地と伴に天上の神と合う。墳墓の完成迄の間「道教御柱」杭を聳え立たせ、羨道より安置すると通ずると信じられ、後、「御柱」は納(おさ)められる。大地と天が直接繋がるのは「御柱」のみで他は、地を祓うのは「杭」、天地を祓うのは千木、突き鉾等、必ず台を据えて立てる「幡(ばん)」で在る。杭は決して天空を突き祓っては為ら無いと言う。故に、天と地を通わすもの、其れが『御柱』で、墳墓のみに立てられ、納む。後、39代天武天皇は「伊勢神宮」に斎宮と「太一(だいいち)」御柱を贈った。(上代)
  
               其の14、に続く。
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