『謎に迫れるか、「平安遷都造営」のお話』 其の4

 平安京造営を探るには、一つの突破口として、キーワードとして新技術の瓦製造が挙げられる。
 渡来系の氏族で漢(あや)氏と勢力を二分する秦氏は山背、後の山城地方に影響力が在り、太秦に居を構えて居た。秦氏創建と伝えられる「広隆寺」が近くに在り、秦河勝が「聖徳太子」より仏像を譲り受けたと、日本書紀に記載が在る。
 百済より伝わる仏教を信奉する最高実力者、蘇我馬子に対し、聖徳太子は秦氏の情報か大陸の実状にも明るく、神仏習合や中国の神仙思想「道教」の教養も在った。聖徳太子はやがて蘇我宗家との対立に近い状態に為って行く。
 古墳時代後記に大陸より高温の窯で焼く須恵器(すえき)(土師器(はじき)は日本古来の焼物)伝う。飛鳥時代に入ると秦氏の影響下、巨椋池(おぐらいけ)、宇治川の水運を用い琵琶湖や遠く飛鳥に通ず京都宇治に、良質の粘土も採れたのか、隼上(はやあが)り窯群が在った。須恵器の窯で須恵器と伴に多量の瓦が焼かれた。瓦製造は最初の寺院、飛鳥寺(886年より)蘇我馬子が建立、百済(くだら)より「瓦博士」と呼ばれる帰化した人達に拠り初めて焼かれる。飛鳥寺の軒先を飾る瓦の蓮華(れんげ)模様は(百済様式)と呼び、隼上り窯遺跡は(高句麗(こうくり)様式)と呼ぶ別系統の瓦で在った。(上代)
 
               其の5、に続く。
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