『平安京から始まる鍬(くわ)入れ、のお話』 話あり

 49代桓武天皇794年、平安京に遷都(せんと)す。日本の原郷、飛鳥の地を離れ、藤原京以来、北上と廃都を重ね漸(ようや)く都を完成させた。平安京は東西南北、寺町通り、天神川通り、九条通り、今出川通りの内に造られ、西半分は低湿地帯で在った。当時都造りは『豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)』が大前提で葦(よし)の茂る葛野宇多村に水田を開き、造営着工の「鍬入れ」儀式を確かに行なった。此処で言う当時の「鍬(くわ)」はどの様な道具で在ったのか。最古の農耕具は「鋤(すき)」で、木製のシャベルに似た土を「鋤取る」から始まるが、上から振り下ろす大工道具「釿(ちょうな)」と同じ石斧の膝柄斧(ひざえふ)から進化した鉄の先金に柄の付く、鍬「鋤」が進歩したもの。農具以外にも使う鍬、の語源は「加える」から来たもので在ろう。着工は国家鎮護の伊勢神宮や両賀茂社に奉告され鍬入れと為った。何故、葛野(かどの)のか、と言うと当時人口密集地で在りて人足等を調達された。伝統の儀式として、水田を開き汚(けがれ)れを祓(はらう)う人工の排水路(杭と土留柵)を設け神々に奉(たてまつ)る神事と思わる。平安京造営儀式等と想われ伝わりているが、其の最たるものが「鍬入れ」で在ろう。平安京造営の様子を知り得る手掛かり『突破口』は他にも在ると想う。(上代)
『平安京造営「鍬入れ」は「地鎮祭」儀式の始まり、のお話。』
 平安遷都に際し、桓武天皇は自ら何度も新京予定地の行幸を繰り返した。現世での平安楽土を願い、道教思想等々風水、方除等も加わり、廃棄物の処理等に悩まされ「廃都」を重ねた反省からも、並々ならぬ思いが在った。
 予定地の西北角に当たる葦茂り小川集まる葛野宇多村に於いて『大和朝廷、天皇祖神を祀る国家鎮護の伊勢神宮、其れに準ずる両賀茂社』三者の拘る願いの儀式様式が合わさり『鍬入れの儀式』、地鎮祭が執り行われたで在ろう。
 先ず朝廷が最も拘る水田の農耕儀礼「護国豊穣」。伊勢神宮は国土自然の汚れを祓い生命力を新たにする、特に社殿中央に鎮める大事な「杭」は遷宮交互間も、そのまま大地を清め祓い、千木は天を突き祓う。両賀茂社、特に上賀茂社は方除の神として「鬼門、不浄門」に立砂「斎砂」を蒔いて清める。
 どの様な「鍬入れ」の儀式かと想像するに水田を開き地の汚れを祓う「杭」と土留柵で神域を分け、天を突く円錐形の立砂を立て、斎砂での種を蒔く。そして「護国豊穣」を奉り祈ったで在ろう。此の平安京造営が鍬入れが、其の後、地鎮祭等や儀式の基本形、思想の根底と相成ったと思われる。(上代)
『謎に迫れるか、「平安遷都(せんと)造営」のお話。』 其の1
 平安京が千年の都と成るに当たり最初の危機が15年後訪れる。桓武天皇の後を継いだ平城天皇は809年、弟の嵯峨天皇に皇位を譲るが、上皇は旧都平城京に移り国政は二つに割れる。遂に上皇は「都を平城に戻さんとす」の環都令を出した。
 51代嵯峨天皇の素早い対応で終息するが、6日間は奈良に都が遷(うつ)った。平安京を確かな都として造営が続けられ、嵯峨天皇は新京造営にも縁が深く都の北東で鬼門に位置する両賀茂社を伊勢神宮に次ぎ王城鎮護(ちんご)にて護り、天皇の未婚皇女「斎宮(さいくう)」が伊勢神官、宮室に籠もり天皇祖神に仕える。其れに準じ両賀茂社にも交互、未婚皇女を「斎王」として仕えさせた。此れが今に伝わる葵祭「斎王行列」で在る。当初は唯一の寺院で「官寺」の東寺、西寺は金堂のみ王城の護り本尊として薬を持ち「薬師如来」が鎮座されて居た。薬子(くすこ)の変で戦勝、八幡(はちまん)宮でも功の在る、空海に東寺が与えられ一任される。東寺、西寺は密教寺院とし「天照大神」にも例えられ「大日如来」をも護り本尊として加え鎮座され伽藍(がらん)も整う。密教に拠りて神仏習合が加速、賑(にぎ)やかと言うか、緑ユウ瓦も葺かれ、華やかな都が形成されて行く。(上代)
               其の2、に続く。
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