「対、地震についての考察」 その9

 歌人、藤原定家(1162~1241)は、平安時代末期の京都、奈良を襲った大地震で建物が倒壊する様子を克明に記述している。その中で定家は度々の地震でも多くの被害が出ているその原因を「長押無きに拠る」と記している。此処で言う長押とは、力貫の事を差す。力貫の原形は外長押の事で在る。当時、中国より伝わった奈良平安時代の唐様式建築では太い柱の自立性に頼る構造で、横方向に繋ぐ部材が少なく不安定で在り、地震に弱かった。故に移設は容易で在った。奈良時代の平城京建物は殆ど遷都した平安京にも移築し、特に主柱は無傷で無駄なく移設、再利用された。横方向に繋ぐ貫等が無かったからで在る。外長押とは縄文、弥生時代古来よりの日本伝統建築様式での桁行方向の外付梁(銅差部に当たる桁)堀立柱付けの此の半割丸太。古来の建築様式神社建築様式でも在る、高床式堀立柱祭殿建築の梁間方向の大引は床丸梁で在り、丸支柱に柄及柄穴加工され込栓留め。桁行方向上端に其の半割丸太の外長押が外側に付く。丸支柱には渡りアゴ仕口加工され半割付梁の外長押に目途穴が開けられ合わされた。此れが後の格式の高い外長押と成る。半割丸太の外長押と其の外長押が力貫へと発展する様子は富山県の小矢部市、桜町遺跡(縄文時代の中期末、紀元前2000年)で出土した其の建築部材が物語示唆している。又、最初の貫は板塀に施された。半割丸太の支柱(1㍍間隔)を立て、竪に渡りアゴ仕口を付け左右から桟穴が開けられ貫を通す。要するに貫穴で在る。此の要領で主柱へも外長押の渡りアゴ仕口を竪に付け貫を通した事に拠り水平力が強化され以後、楼観(物見櫓)や総柱型高床式堀立柱祭殿建築の様な高層建物が可能と成った。此処に耐震性の力貫が既に完成されていて当時も、堀立柱建物では使われていた。(上代)
               その10、に続く。
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