「対、地震についての考察」 その6

 其れでは、日本建築史に於ける五重(三重)塔以外の耐震、対地震への対応策は、どの様に取組まれていたのか。元来、日本では飛鳥時代(538年~709年)以前の伝統建築、堀立柱高床式建築では、当然の如く地震には強く倒れ難い筈で在った。筋違及び方杖等の斜材は全く無い。斜材は突っかい棒と見なされ、水平材及びキャンティレバー持出梁が基本と、今も考えは顕在する。日本住宅建築概念の中に深く根差した古来よりの観念で在ろう。
 しかし、奈良時代に入ると中国唐より遣唐使や他にも依り最新の技術様式が直接、日本に伝えられる。寺院の建築様式は飛鳥時代の和様から平安時代の唐様と呼ぶ様式に替わる。其れ迄の堀立柱より、礎石上に柱が立つ建物は飛躍的に寿命が延びた。しかし平安時代の此の唐様式建物には構造上の欠陥が在った。其れは地震時、水平方向に対しては太い柱の自立性に頼る構造で建物を横方向に繋ぐ部材が少なく不安定で在った。この事は平安時代末期、京都、奈良地方を襲った大地震で尽く倒壊し、度々の地震でも多くの被害が生じていた。記録に依ると此の原因を「長押無きに依る」と記されて居る。
 鎌倉時代初頭、これらの耐震問題を解決する為に中国から、新たに導入されたのが唐様に替わって大仏様(天竺様)で在る。大仏様の元に成ったのは中国南部の(宋)の建築様式を参考にされた様式で在る。特徴として力貫の多用と方杖式の斗拱(後に蟇股に換わる)の配置に在った。大仏様の例として東大寺の南大門、浄土寺の浄土堂で在る。しかし此の様式は長く続かず直ぐに新和様と禅宗様に替わって仕舞う。大仏様が其れまでの建物と比較して異質で在ったと言われている。しかし耐震性は格段に向上した。要するに、力貫と蟇股が耐震構造、化粧材に斜材部材無しでの耐震補強で在った。(上代)
               その7、に続く。
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