人は、信じたものを観る、と言うお話。(15号文)

 例えば、私の好きな芸事(げいごと)等で、詩吟の世界にも、『守(しゅう)、破(は)、離(り)』は当て嵌(は)まる。難しくて小生も、ハッキリとは理解されて居無いが、此の世界に入って既に35年が過ぎ、未だ道半ば、途方に暮れる時在りて、何かに導かれる様「一心不乱」に研鑽(けんさん)を積んで居る。
 人は、信じたものを観ると言う。一時期其れを観た。其れを又、観ようと、工夫凝らし近辺に辿(たどり)り着くも及ば無い。しかし、必ず出来る様に鍛錬を積む。
 守(しゅう)(形から入る。)指導者に教わり、形は約3年で一応出来たと覚えて居る。破(は)(自由に作れる。)人より長く掛かりて約20年で自信も付き、自由に操(あやつ)れる様に為りて確か其の頃から独自スタイルも出来、好きなアレンジも加えた。離(り)(オリジナルを創る。)35年要し、漸(ようや)く明かりが見えて来た。未だ完成して居ないが手が届く処に在ると確信す。今現在は何れ有力、めぼしい方々に認めて貰(もら)へ、表現する所が理解されて来た。早く万人に伝わらん事を願う。
 しかし、九割方出来て居るとは考えるが残り10%、5%が大変なのです。「苦難の道」としか言い様が無い。一様には行かず全力で取組ま無ければ「水泡に帰す。」理屈では無く神か仏、天の導きか研鑚積む外無し。(上代)
            永久(とわ)に続けたい!