大陸より祖霊(それい)信仰伝わり、ピラミッド型墳丘墓発達。

紀元前2世紀より「ピラミッド」そっくりの「四角錐型」葺石(ふきいし)に覆われた墳丘墓が発達して行く。角を除く四辺に雨水が溜められる堀から次第に川や沼から水が引かれ堀が巡る。卑弥呼の時代(後200年代)に移ると、大和朝廷の古墳が壺(つぼ)型の前方後円墳(女性の子宮か)と成る。魏志倭人伝に拠ると当時国内に百余りの国が在ったと伝う。他の地方豪族等はピラミッド型の四角錐。
33代推古天皇(女帝)時、聖徳太子と実力者、蘇我馬子の共治政治に。聖徳太子は神仙思想が元での中国の道教思想を取り入れ、34代舒明(じょめい)天皇より「現世での幸福を求め、太極は北極星を指し、世界は八つの隅(すみ)から成る。」と言う世界観で天皇を中心とする考えに依り天皇陵墓は八角形に変わる。又、大内裏(だいだいり)に古代中国を真似て、太極殿(だいきょくでん)が日本古来建築様式に拠り板葺宮(いたぶききゅう)等が建ち基壇を設け石張り土間、イスに腰掛ける様式と成る。記録で此の時より、墳丘墓の構築時『御柱(おんばしら)』が立てられ亡骸(なきがら)が安置されると御柱は納められた。天と人と大地が一体と成り、神が御出で頂く目印で人を貫(つらぬ)くもので在ろう。エジプトのピラミッドでも築造時『杖柱(つえばしら)』が立てられた記録が在る。(上代)
亦、次回へと続く。