平安京造営「鍬入れ」は「地鎮祭」儀式等の始まり。(9号文)

 平安遷都に際し、桓武天皇は自ら何度も新京予定地の行幸を繰り返した。現世での平安楽土を願い、道教思想等々風水、方除(ほうよけ)等も加わり、廃棄物の処理等に悩まされ「廃都」を重ねた反省からも、並々ならぬ思いが在った。
 予定地の西北角に当たる葦(よし)茂り小川集まる葛野宇多村(かどのうだむら)に於いて「大和朝廷、天皇祖神を祀る国家鎮護の伊勢神宮、其れに準ずる両賀茂神社」三者の拘る願いの儀式様式が合わさり「鍬入れの儀式」、地鎮祭(じちんさい)が執り行われたで在ろう。
 先ず朝廷が最も拘る水田の農耕儀礼「護国豊穣」。伊勢神宮は国土自然の汚れを祓い(はらい)生命力を新たにする、特に社殿中央に鎮める大事な「杭」は遷宮交互間も、そのまま大地を清め祓い、千木(ちぎ)は天を突き祓う。両賀茂社、特に上賀茂神社は方除の神として「鬼門、不浄門」に立砂「斎砂(いみすな)」を蒔いて(まいて)清める。
 どの様な「鍬入れ」の儀式とか想像するに水田を開き地の汚れを祓う「杭」と土留柵(どどめさく)で神域を分け、天を突く円錐形の立砂を立て、斎砂での種を蒔く。そして、「護国豊穣」を奉り祈ったで在ろう。此の平安京造営の鍬入れが、其の後、地鎮祭や儀式の基本形、思想の根底と相成ったと思われる。(上代)
          お話は、益々、続きまあ~す!